被害者・遺族から

被害者・遺族からメッセージ

自助グループ「さくらの会」活動紹介

自助グループとは

事件、事故により大切な家族を亡くされた被害者遺族の会です。心のうちを語り合うことにより気持ちを分かち合い、共感し孤立感を解消し、その後の生き方を自分なりに見つけて精神的に回復していくことを目的としています。

支援センターは自助グループ「さくらの会」を支援しています。

さくらの会は、2〜3年の準備期間を経て、平成20年1月23日に5人のご遺族の方が参加して発足しました。今年1月で丸9年が経過し、例会には常時4〜8人が参加されます。
事件や交通事故などの被害者遺族がつどい語らうことで、互いに心境を理解し合い、励ましながら、生きる勇気を分かち合っています。
同じ犯罪の被害者だからこそ、心から安らかに過ごせる空間と時間を共有できます。
そして、涙を流しながらも強く生きていくための光を発見することができます。

例会 毎月1回 第2水曜日
場所 くまもと被害者支援センター 研修室
メンバー 殺人事件被害者ご遺族・4名
交通事故被害者ご遺族・4名
参加希望がある場合は事前にご連絡をいただきますと、センターから取次をします。

自助グループ参加者の声から

どうして?どうして私の娘なんだ?
私が何か悪い事でもしたのか?
私が間違っていたのか?
ひょっとしたら娘が殺されたのは、私のせい?
私が愛する娘を殺してしまったのか?
私が一番悪いのか?
加害者が悪いと理解していても、いつも心が私自身を責める。
このような気持ちで時間だけが過ぎ去っている。
娘を亡くした父

さくらの会での出会いが、自分だけではないという安心感を与えてくれました。そして、私に社会の中で生きる勇気を持たせてくれました。
19歳で亡くなった息子のことを、毎日思い出しながら、どう生きたらいいのか悩む毎日ですが、少しでも人のために努力することが大切だと思えるようになってきました。
毎月の何気ない会話がとても大きな励みになっています。
息子を亡くした父

手記集のご紹介

くまもと被害者支援センターでは、被害者(ご遺族)の心情や、犯罪の被害に遭ったことで一変してしまう生活など、被害者(ご遺族)の置かれた現状をより多くの方々に知っていただくために、手記集〜犯罪被害者や遺族の思い〜「もう一度、微笑んで」を発行しております。
平成22年3月に第1集を発行し、本年度で第7集の発行となりました。この7冊の冊子には、被害者やご遺族のたくさんの思いが込められています。手記集を通して、ひとりでも多くの方が被害者(ご遺族)の方々の心情に思いを寄せ、犯罪被害者支援の大切さを感じていただけたらと思います。

「さくらの会」設立から五年を振り返って(手記集「もう一度 微笑んで」第3集より)

もうすぐ智紗都の事件から10年が経とうとしています。長いようで本当に短い10年間でした。それまでは普通の人生を送り普通の家族を持った私にとって全く信じられないものでした。きっかけは私が事件の4年半前に高校入学祝いに買い与えたパソコンが原因でした。事件後マスコミによって「出会い系サイトで知り合った男に絞殺された女子大生。」と書かれたことにより加害者を恨むより、私自身が大切な娘を殺してしまったという、後悔の念に捕らわれてしまい、その思いが今でも私自身を縛り続けています。
事件後仕事に頑張ろうと思いましたが妻に仕事を続ける事が無理だと訴えられ数ヶ月間話し合った結果として2年後に 辞める決心をしました。妻はスーパーの中で自営業をしていたせいか多くの人達からその人達なりの「やさしい言葉」や「やさしい態度」が長く続く事に対して耐えられなくなっていきました。
三女には大学進学を諦めてもらう事になりました。同じクラスに進学しない人は三人しか居ない事を聞かされて本当に嫌な思いをさせたと思っています。
長女は智紗都から加害者について相談を受けていたのですが「お父さんに言わないで」と智紗都から言われた事により私に言わなかったので事件を自分のせいにして思い悩むようになりました。
私はというと長女の結婚や孫の誕生を素直に喜ぶ事ができずにいろいろな事に対して否定的な生き方しかできないようになりました。
この様に一つの事件が残された家族一人一人の人生を大きく変えていくという事に実感せざるを得ませんでした。
私は事件後家族を守らなければならないとの思いで、周りからの援助や支援など必要ないと頑張りました。しかしどの様に努力してもなかなか報われず家庭の中はどんどん悪くなっていきました。私自身も毎日の様に襲ってくる智紗都に対する思いや辛さが想像以上で何時間涙が溢れ出すか自分でも分からない状態が何年も続いたのです。また家族間の会話が極端に減り、ただ同じ家に住んでいるだけの関係の様でした。それから民事裁判に勝ち、もらえもしない一億円という賠償金の事が新聞に書かれて、同じ時期に仕事を辞めたり自動車を買い換えたりしたことで多くの人達に勘違いをされたのも原因にあると思うのですが、その様な中で私自身の心が少しづつおかしくなっていくのが分かり「どうにかしなければならない。」と思い悩んでいる時に「くまもと被害者支援センター」の方から「自助グループの設立に参加しませんか?」というお誘いを受けました。事件から3年程経ちその頃の私は同じ様な境遇の人達と語り合いたいと思う様になっていました。
そして半年後に自助グループ「さくらの会」は設立することになったのですが、最初から上手に運営されていた訳ではありませんでした。しかし回を重ねていくことで「さくらの会」はその意義が大きくなってきた様に思います。
同じ様な悲しみや辛さを持つ遺族にはただ一緒に居るだけで分かり合えるものだと思います。たとえ言葉を交わさなくとも同じ境遇の人達がそこに存在するだけで心が安らぎます。
私は8年以上も家族に笑顔が無い事を悩んでいました。しかし同じ遺族の方から「私の家庭は9年以上ですよ。」答えれてどれだけ安心した事かを思い起こされます。そして私より少しだけ心の整理ができている様に見える人達と接することで自分もいつの日かその様になれるのではないのかと思いました。悲しみや苦しみが限り無く続く事が当然であり、そしてそういう時の中で自分を否定しながら生きていかなければならない事が不自然でない事を教えられました。
「さくらの会」が出来て5年以上も経って思う事は、やはり自助グループという存在はどの様な形態であれ遺族や被害者にとって絶対に必要であると思います。現在は月に一度の例会を開き、多い時で8人くらいの参加があります。しかし少ない時は私一人だけという時も時々ありましたが、たとえ参加人数が少ない時期が続いたとしても一人でも良いから必要とする人がいることにより存在意義を見い出す事ができると思います。そして私自身も亡くなって何年経ってもなお「さくらの会」を通して智紗都が人の役に立てていると思う事が出来ることが嬉しいのです。現在私は智紗都と共にこれからの人生を歩み残された家族を幸せにしたいと思っていますし、私に係わった人達が少しでも何かを感じ取ってくれるのが一番の望みです。そしてそれが智紗都がこの世に生きていた証になると思っています。
それから現在、裁判員裁判や被害者参加制度を見て、昔の智紗都の裁判とは本当に異なるものになって来たと思います。智紗都の裁判の時は私達家族は加害者に全く無視されました。一度も目も合わされることも無く、頭を下げられることも無く終わりました。裁判の中で加害者に直接問いただしたい思いを具現する事が出来ず振り返ってみて、ものすごく後悔しています。だから智紗都の裁判の時の裁判は私が納得出来るものではなくて、ただ判決を頂いただけの裁判だった様に思います。
しかし現在の裁判は被害者側に立った裁判が以前より行われる様になったと思います。その中でもやはり被害者側が直接加害者に質問できるという事が一番のメリットだと思います。私にとってうらやましい限りです。他にも検察官が被害者側に気を使っているのが見て取れます、とても分かりやすい言葉を使い素人の裁判員の方々に訴える事により誰にも理解しやすい裁判になっていると思います。
それは被害者側が裁判に参加していると自覚を持てる様な形になってきたおかげで、被害者やその遺族がこれからのそれぞれの人生を歩む上でなるべく悔いの残らない様な形に近づいていると思います。
しかし、だからといって現在の裁判の形が全て良いとは思いません、いろいろと反省をして議論を深めていかなければならないと思います。いろいろな賛否両論があって当然ですし、私も被害者にとってどのような裁判の形が最上なのかは考えがまとまっていません。本当に被害者一人一人の考え方が違う訳ですから無理な事はたくさんあると思いますが、以前より確実に良くなっているのは経験からわかります。その為には現在の裁判の形を後退させてはならないと絶対に思います。
これから先法曹関係者だけではなく一般の人々にも真摯に考えてもらえる様な社会になり、裁判が理想の形に近づいていけたら最高に良い事だと思います。
(自助グループ「さくらの会」代表 米村 州弘)

PROFILE
1955年 熊本県生まれ 1男3女の父
2003年9月 当時大学2年生だった次女智紗都さんを殺害され奈良県の山中に遺棄された殺人事件被害者ご遺族
2008年1月 くまもと被害者支援センター自助グループ「さくらの会」立ち上げに協力し、2011年4月から同「さくらの会」代表を務める

「もう一度会いたい」~交通事故で奪われた息子の命の重さ~ (機関誌「センターニュース」第19号より)

また、飲酒運転で事故がおこりました。登校している野球部の高校生が亡くなりました。
いいえ、殺された、という方が適切かもしれません。甲子園をめざして練習をがんばっていたそうです。私は、息子の死を思い起こしながら、息苦しいほどの悲しみと怒りで目頭が熱くなりました。福岡で三人の幼児が飲酒運転で亡くなって以来、全国で飲酒運転撲滅の気運が高まり、厳罰化やキャンペーンが進められましたが、飲酒運転が減少するどころか悪質化しているようにさえ思えます。教員や警察官を含む公務員の飲酒運転も起こっていますが、被害者の立場から命の重さが本当にわかっているのか、疑問に思えてなりません。
どんなに大切な命でも失ったものを取り返すことはできません。実につまらない飲酒運転によって亡くなった高校生の夢や笑顔、希望に満ちた将来を思い浮かべると悔しさで歯を食いしばるしかありません。無念です。自分の命や生活を守るために飲酒運転をしてはいけないのではありません。何の罪もない人の命と夢を奪うという重大な犯罪だという認識が大切なのです。
もうこれ以上、被害者も加害者も増やさないために、すべての皆さんに、飲酒運転で亡くなった幼い子どもたちや高校生などの多くの被害者の命の重さを考え、被害者の悲痛な叫びに耳を傾けてほしいものです。
平成16(2004)年12月1日、当時19歳の大学生だった私の息子は、交通事故で亡くなりました。理科の教師になりたいといって懸命に勉強し合格した熊本大学教育学部に、バイクで通学する途中でした。大型トラックにぶつかり即死でした。事故の過失は相手側にありましたが、執行猶予の判決でした。命の重さはかわらないのに、交通事故の罪は軽いのです。
私は、仏壇に向かっては「どうして死んだんだ。」と息子を責め、振り返っては「息子は自分の身代わりになって死んだのではないか。」と自分を責め続けました。悔しさ、無念さ、怒り、憎悪など、様々な心情に悩み苦しみ、早く死にたいとさえ思う毎日が続きました。
そんなある日、息子が現れて、「俺も同窓会の準備でいそがしい。」と私に告げたのです。私は、「そうか、友達のためにがんばれよ。」と励ましました。私は、「息子は、夢に向かってがんばっていたのに生きることを許されなかった、さぞや悔しいだろう、悲しいだろう。」と思っていたのに、本当は天国で同窓会の準備をしながら前向きにがんばっていたのです。それなら私もがんばらなくてはいけない、という気持ちがわいてきました。
私は、息子を励ましたつもりでいたのですが、逆でした。私が息子に励まされていたのです。息子が生まれてからの19年間を思い出しながら、自分がどんなに幸せだったのかに気づきました。「そうだ、息子は、私を幸せにするために生まれてきてくれたんだ、息子の死を嘆き悲しむのではなく、その命に感謝しなくてはいけない、息子よ、生まれてきてくれて本当にありがとう。」私は、仏壇の息子に心から「ありがとう」と言えるようになったことによって、怒りや憎悪を乗り越えて立ち直ることができました。こうして、私は息子に助けられたのです。
それから3年後、私は、食道がんの告知を受けました。すぐに手術をしなければいけない状態でした。
私は、「死んだら、息子に会える。」と少しうれしい気持ちで、死ぬのは怖くありませんでしたが、また息子に会ったときに「がんばったけど死んじゃった。」と言えるように手術を受けました。ICUで寝ているとき、また息子が現れにやにやと笑っていました。また、息子に助けられたんだと思いました。
同じ病院にいた方々は、一生懸命にがんばってがんの治療を続けていらっしゃいましたが、何人も亡くなりました。まじめにがんばって生きてきた善良な人々から命を奪っていく不合理な運命に疑問をもちながら、「いのち」がどんなに大切なものであるかということを教えられました。
私は、体力も気力もなく責任を果たす自信がなくなり退職しました。退職してからは、がんが再発したあとでも治療に耐えられる体力をつける努力を続け、登山もできるようになりました。念願の阿蘇やくじゅう連山にも登りました。
山の頂上で、こんなことを考えました。「神様、いるなら教えてください。こんな小さなリンドウでさえ命を与えられているのに、どうして私の息子は、生きていくことを許されなかったのでしょうか?どうして息子の代わりにこの私を殺してくれなかったのでしょうか?」
何をきいても山は応えてくれません。雲がわきあがって風が急に強くなるばかりです。「時が経てば解決する。」といって慰める人もいます。「どんな苦難も乗り越えられる。」といって励ます人もいます。でも、愛する息子を亡くした心は、軽くはなりません。ご飯を食べてもテレビを見ても、買い物に出かけても散歩をしても、毎日思い出さないことはありません。息子の死は、悔しさ、寂しさ、悲しさ、むなしさなど形を変えながら、年月とともに少しずつ重いものになっていきます。なくなってしまった息子の人生は、どんなことがあっても二度ともどらない、と思うと自分の人生の意味もなくなってしまったとしか思えないからです。
今、息子は、どんなことを考え、どんなことをしているでしょうか。
そして、今の私を見て息子はどう思うでしょうか。
これから、私はどう生きればいいのでしょうか。
私は、「もう一度会いたい。」と思いながら歩き続けます。もう一度あの笑顔を見たい、もう一度あの声を聞きたい、もう一度私が作ったハンバーグを食べさせたい、そんなことを夢見ながら、山の頂上で息子を待つのです。
突然息子がいなくなってから、私の人生は二転三転してきましたが、毎日息子のことを忘れたことはありません。何でも相談しながら生きてきました。これからも同じだろうと思います。今、私は「くまもと被害者支援センター」をはじめ様々なボランティア活動を通して、少しでも地域や社会のために役立てるように努力しています。そして、がん患者や犯罪被害者などが中心となった「いのちをつなぐ会」というNPO団体を設立し、いのちを大切にする社会づくりに取り組み始めました。生前の息子も「人のためになりたい。」と言っていたので負けるわけにはいかないのです。前を向いて進んでいくしかありません。
でも、悲しいのは、息子があのときのままだということです。息子の友達は、就職、転居、結婚、出産など日々成長し変化し新しい夢に向かって生きているのに、私の息子は19歳のまま時間が止まってしまったのです。生きていたら、今、どうなっているだろう、と想像すると寂しさのあまり涙があふれます。
私を何度も助けてくれた息子。
もしかしたら、私の命を助けるために亡くなったのかもしれない息子。
いつまでも、いつまでも、やさしい笑顔のままで止まってしまった息子。
もう一度会いたい。そして、心から「ありがとう」と伝えたい…。
そう思いながら、私は息子の命の重さを多くの人に理解していただきたいと願っています。
(自助グループ「さくらの会」高濵伸一)

PROFILE
1955年 熊本生まれ
2004年 19歳の長男が交通事故死
2007年 「怜志、ありがとう、再会を信じて」(自費出版)
2010年 食道がんのため、合志市立合志南小学校長退職
現在、「いのちをつなぐ会」代表理事、「がんサロンネットワーク熊本」副代表理事として、命を大切にするためのボランティア活動に取り組んでいる。

娘へ (手記集「もう一度 微笑んで」第6集まり)

娘が亡くなり一年半が経ちます。以前は久しぶりに家族や親戚の顔が揃うお正月をとても楽しみにしておりましたが、今は年を越すことがとても辛くなりました。できればあの娘が生きていた、その年に留まっていたいという思いがお腹の底からこみあげてきます。年を越すとあの娘が私から遠のいていくようでとても辛くなります。ただ逢いたい、夢でもいい、幽霊でもいい、あの娘に逢いたい。
「県内でも一番の部活マネージャーになる」と頑張っていた娘をもっと応援してあげればよかった。
インスタントのお弁当でも、「お父さんがつくってやんなった」と自慢していた娘に、もっと手作りのお弁当をもたせてあげればよかった。
小雨でも学校までの道のりを送ってやればよかった。
欲しいものがあっても、ねだることがなく我慢していた娘の気持ちを知りながら、買ってあげることができなかった。親らしいことを何一つせず、あの日もいつもと同じように、何も気づくこともなく送り出してしまった父さんをどうか許してほしい。頭を下げて娘に詫びたい。犯人を憎み恨む気持ちより、後悔とわが身を責める毎日です。
私達家族に耐え難いほどの苦しみを与えた犯人は自殺しました。しかし私は正直「ざまあみろ」とか「清々する」という気持ちは全く起きませんでした。確かに私は裁判の意見陳述の中で「犯人を死刑にしてほしい」と述べました。しかし実刑判決は、たったの十八年でした。当時まだ十七歳だった娘は、これからの長い人生の中でいずれ愛する人と巡り合い、自分の夢を追うという、人並みの幸せを求めるぐらいのことは許されたはずです。その人生に耐えがたい苦しみや恐怖を与えて奪ったのですから”たった”としか言わざるを得ない判決でした。しかし十八年という実刑判決が出た以上、私は犯人に生きて罪を償ってほしかった。犯人の供述書の中で娘は自殺願望があったわけでもなく、犯人が「死にたい」といった狂言じみた言葉を信じ、「死んだらだめ」と必死に止めていたと書かれていました。助けたがっていた娘の気持ちを思うと、生きて刑に服することが、娘の思いに報いることではなかったのかと思います。裁判の中で何一つ真実を語ろうとしなかった犯人に対し、獄中であろうと、何度でも真実を問い続けたかった。しかし今となっては、私が知りたかった真実は全て闇の中に葬られてしまいました。できることなら、娘の純粋な思いを二度も三度も踏みにじった犯人の頬をおもいきり平手で殴ってやりたかった。音を立てるほどに、自分の手が赤く腫れれば腫れるほどに、犯人が感じた痛みをこの身で確と確かめたかった。
娘が亡くなり、ネット上では「見も知らぬ男について行くほうが悪い。犯人だけを責められない。」と書かれたこともあります。確かにそうかもしれません。しかしそれは「そんな人を信用するな」と教えてこなかった親の過ちであります。
娘に何一つ落度はありません。
これからも親思いであった娘との生活が、ずっと続くのだと、それが当たり前なのだと思っていました。しかし娘は何の前ぶれもなく、この世から消えました。
この一年半が夢のように過ぎ、今自分自身が何によって生かされているのかもわかりません。
娘の事件後も悲しい事件が後を絶ちません。毎日のように新たな悲しみが生み出されていきます。その度に、ご遺族の悲しみを思わずにはいられません。私自身も事件当時のことがよみがえり、涙があふれてきます。これからどれだけ、わが子を殺された悲しみや苦しみを抱えて生き続けなければならないのでしょうか。周りの方々からは、「悲しんでばかりいらっしゃったら、天国で娘さんもご家族のことをきっと心配されますよ」と言葉をかけて頂きます。
親思いであった娘の遺影は、「お父さん心配かけてごめんね」と語りかけているように見えます。
頭ではわかっていても、どうしても心では受け入れることができません。今でも夕方自転車の音がすると「お父さん、お腹すいた」とひょっこり帰ってくるような気がします。どこかで生きているような気さえします。それでも、あの娘が十七年間生きてきた短い人生には、この世に生まれてきたことには、きっと意味があったのだと必死に思い続けています。自分自身に言い聞かせ、問い続けています。そう思わなければ、十七年間あの娘なりに一生懸命生きてきたのに、周りから本当に愛されて育ってきたのに、あまりにもあの娘が不憫でなりません。
毎日のように報道される事件を見ながら、私は一日も早く犯罪のない社会になってほしい。このような悲しみを背負うのは私達だけで終わりになってほしいと思います。今回の裁判員制度によって行われた裁判に関しては、このような犯罪を防止する意味からも重刑を科してほしかった。
これから未来に向かって生きていこうとした娘の人生を奪った犯人に何故”たった十八年”の実刑だったのでしょうか。何故罪を犯したものが法によって守られ、被害者や遺族が社会の好奇の目に晒され非難されるのでしょうか。何故、何故、この言葉が頭の中を駆け巡ります。やり場のない気持ちをどこにもぶつけようがありません。
けれど、そんな時「お父さん、泣くな!」あの子の笑い声が聞こえます。亡くなってまでも、親孝行してくれる娘です。そんな娘の思いに何も報いることも出来ませんが、今の私にできることは返事をもらえることもない、娘との対話をこれからも続けていくことです。そして亡くなった娘のためにできることを探していきたいと思います。
荒川 不朽生

当時十七歳の娘さんを殺害されたご遺族。
裁判員裁判で被害者参加をされた遺族の悲痛な心情を訴えられました。
検察の懲役二十三年の求刑に対し懲役十八年の判決が下されましたが、被告はその後拘置所内で自殺を図りました。

 

 

PAGE TOP